固いこんにゃく、可愛いかわいい、コトバに化粧を施すこと
言葉を字にして書く時、口に出す時、ぼくは非常におもしろいと思うことがよくある。
それは、かな・カナ・漢字や言い方ひとつで、そのものから受ける印象はがらりと変わってしまうからだ。
「モノ」を例に挙げても、「もの」とひらがなで書けば柔らかい印象を受けるし、「物」と書けば固い印象を受ける。
これが本当におもしろいもので、固そうな「固い」でさえも、「かたい」と書くと途端に柔らかくなってしまう。
「厳しい」は厳しいはずなのに、「きびしい」と書くとどこか温かみすら感じてくる。
逆に「こんにゃく」と書けば柔らかくて身近なものに感じるのに、「蒟蒻」と書くと固く、どこか遠いように感じてしまう。「レモン」と「檸檬」も同じく。
ひらがなにすると柔らかく、カタカナにすると少し固く、漢字にすると相当固く感じるようになる。
「かわいい」はだいぶかわいい気がしてくるし、「カワイイ」と書くと軽いノリを感じる。「可愛い」と書けば少し大人めいた雰囲気がしてくる。
これを用いて、タイトルロゴなどで内容の雰囲気を説明するものもよくある。
「軽音」ではなく「けいおん!」だし、「学校暮らし」ではなく「がっこうぐらし!」なのはそういうことだろう。
言い方、というものも与える印象を大きく変えてくる。
例えば、「目薬」と言うと簡単に手に入る我々の友人感が出るが、「点眼薬」と言うと唐突に、固いもの、医者から処方されるもののように感じてしまう。
第3類医薬品と付け加えればもはや手の届かないところにある気がしてくる。
ものは言い方一つで、がらりと雰囲気を変えてくる。
「人」もそうである。「人間」と書くと種族を指しているように感じるし、「人類」と書けばいよいよ種の話である。
一方で、「人々」と言えば種族ではなく民衆などの広い集団を指していそうだし、「ニンゲン」と書くとそこまで固い話をするわけではなさそうだ。
しかし、ただカタカナにすれば身近になるかと言えば、「ヒト」と書くとまた種族の話をしているように感じる。
言い方、書き方によって顔を変えるパターンがもうひとつある。略称か否か、である。
例えば、「電卓」。電卓と言われればおそらくすぐにイメージがつくだろう。面倒な計算を肩代わりしてくれる気の良いあいつである。
しかし「電子式卓上計算機」と言えば、なんか凄そうなものに感じで、イメージなどつきそうもない。
三回は回さないと差し込めないケーブルで有名な「USB」だが、これは「ユニバーサル・シリアル・バス」である。後者で言われると何のことか分からず、ぼくは脳が一瞬フリーズしてしまう。
「リモコン」と言えば、テレビやエアコンを遠くから操作してくれる、生活になくてはならないあいつを指すが、「リモートコントローラー」と言えば、SFのガジェットか何か? と思わず尋ねたくなってしまう。
「テレビ」だって「テレビジョン」なわけだし、「エアコン」は「エアーコンディショナー」である。もはや我々の日常はSFの世界だ。
ぼくは温度変化が苦手なので、エアコンにはたくさんお世話になっているが、エアーコンディショナーとか言う何か凄そうなものとは無縁の生活を送っている気がしている。
書き方、言い方ひとつでここまで印象や世界はがらっと変わる。ぼくは柔らかい印象が好きなので、迷ったらひらがなをよく選ぶ。
書き方や言い方をこだわること。それはその「コトバ」に化粧をすることに近いと思っている。かわいくなってほしいのか、キリッと格好良くなってほしいのか、親しみやすくなってほしいのか、逆に近づき難くなってほしいのか。
ぼくは様々なところで言葉を良く扱う。ぼくに限らず、誰しもが言葉を頻繁に扱うだろう。
できれば、細かい部分まで丁寧に化粧をしてあげられるようになりたい。
青い光は可愛くないし、手元から目薬
最近よく、眼球の表面だか、網膜だか、目の全体だか分からないが、凄まじい痛みに襲われる。
奥から焼けるようにじんじんと、目からはぽたぽたと涙が溢れて、それでもなお目は痛み続ける。
ついには音を上げて、思わず目蓋をぎゅっと強く閉じる。
そうすると、多少痛みは緩和されるのだが、多少でしかない。
恐らく、いわゆるドライアイとかいった類のものだ。
最近、液晶を見ることがとても多い。四六時中見ていると言っても過言ではない。スマホからはじまり、タブレット、パソコンのモニター、ゲームをしているテレビ画面と、じっとブルーライトを摂取し続けることが日課になっている。
しばらくすると、ぼくの目は限界を迎えたことを訴えてくるのだ。凄まじい痛みとともに。
もう少し穏便に伝える方法はないのか、と目に問うても、だってお前こうでもしないと続けるじゃないか、と目はつっけんどんに返答をしてくる。全くその通りである。
そうなると、あまりの痛みに耐えられないぼくは、慌てて目薬を掴んで、滴を目に落とす。
目薬はずいぶんと爽快感のある種類のものだから、突然に目は風当たり良くなる。
それもまた若干痛いのだが、とにかく潤さねばと、ひとつ、ふたつ、みっつと液を垂らしていく。そうしてようやく痛みから解放される。
そして、また性懲りなく画面の前に戻るのである。目には本当に申し訳ないと思っている。
子どもや孫など、可愛いものはとにかく可愛いという意味で、目の中に入れても痛くない、と言ったりする。
まずサイズ的に入らない、という無粋な突っ込みは置いておくとして。
可愛さを表現するために目の痛みを使うこのことわざからは、昔から目の痛みは激しいものであったと考えることができる。
目の中に入れると痛いから、目の中に入れても痛くないと言うわけで。
目という部位は視覚を司る以上、人間の部位でも大切な部位だ。だから、大切な部位を引き合いに出すのは不思議ではない。しかし、そう考えれば心臓とか脳とかの方がよっぽど重要に思える。
それでも目に入れるという前提になったのは、目に何かが入るととても痛いという共通認識が、ことわざ誕生当時からあったからなのだろう。
いつだって、目に何か入ると痛いのだ。たとえそれが触ることのできない光だったとしても。
つまり、ブルーライトは可愛くない。
ところで、ぼくは目薬が下手である。両目にさすので一度に二回行わねばならないわけだが、毎回どちらかは失敗する。
中央の黒を外し、白目すらも外した滴は、頬を伝って、首を通り、襟を濡らしてしまう。
高さ1cmもない状態でこれなのだ。数メートル上から目薬をさすなんてどれほど難しいことなのか。
二階から目薬、である。
もどかしいとか回りくどいとかそう言った意味だが、尋常ではない難度をよく表していると思う。
想像してみても、全く成功のイメージが浮かばない。どう考えても入らない。
なるほどもどかしい。とっとと階下に降りて目薬を手渡せば良いのだ。はい、どうぞ。
しかし、もどかしいことを言うのであれば、もっと言い方はたくさんあると思う。卵を割ったら殻が結構入った、とか。
そんな並み居る強豪を打ち破り、二階から目薬をさすことになったのは、当時でも目薬をさすのが難しかったからだと思う。
ただでさえ目薬をさすのは難しいのだから、二階からはなおさら難しい。そんな実体験に基づく、生活密着型のことわざなのではないだろうか。
ともすれば、目薬をさすことに失敗するのも、普遍的な経験なのかもしれない。
そう考えると、ぼくは目薬をさすのが下手ではないと言える。昔から無数の人が何度も失敗しているのだ。ぼくだって失敗する。
むしろ、失敗しない人が上手いのだ。目薬をこぼさない皆さんは、目薬をさすのが上手だ。誇っていい。二階からはともかく、手元から目薬はできる人々なのだ。
そんなことをつらつらと並べ立てていたら、また目が痛くなってきた。目からの伝言が来てしまっている。
はやくしろ。画面を見過ぎだ。目は痛いぞ。
うるさいな。わかったよ。目薬させばいいんだろ。
そうじゃない。画面を見る時間を控えろって言ってるんだ。
このご時世に無理だ。目薬で勘弁してくれ。
いいから早く画面から目を離せ。そして目薬をさせ。お前の気持ちなど知ったことではない。
はあ。全く、目の上のたんこぶである。
本とラベンダーとしみ
本の匂い、と書いてあればきっと、紙の匂いやインクの匂い、古書特有の柔らかくほのかに甘い匂いや、あるいは新しいもののきりっとした匂いを思い出すだろう。
ぼくは、違った匂いを思い出す。
ラベンダーの香り。それが、ぼくの本の匂いだ。
どうしてそんなことになっているのかといえば、まず後ろに積まれた本たちを開いた時の話から。
ぼくは別にお金持ちではないので、少し前に出版された本は概ね中古を買う。中古であれば、文庫本が300円ほどで買えるので、新品1冊分のお金でなんと2冊買える。
だからよく中古で本を買うわけだが、そうしてある日買った本の一冊から、黒い点が動いた。
はじめは埃か何かだと思っていたのだが、それはどうやら意思を持っているようで、紙面を縦横無尽に動き回り始めた。
それが点ではないことに気づいたぼくは、慌ててティッシュを数枚取り、五分の魂を殺すに至った。
その後で調べたところ、それはチャタテムシという虫のようで、本の中に住む虫ということだった。本の虫、と言えば今まで書痴のこととしか思っていなかったが、この一件からぼくの本の虫が本当に虫になった。
この経験から、本の虫には一層の注意を払うことになったのだが、何より強烈だったのは、検索したページに記されていた、同じく本の虫の種類に「シミ」という虫を見たことだった。
シミ。漢字で書くと紙魚という字を書くらしい。紙の魚とは何という美しい名前だろうか。紙で出来た魚なのか、紙を泳ぐ魚なのか、センスが光る名前だと思った。
そして、少しわくわくしながらその画像を見ると、文字通り光っていた。銀色の平たいそいつは蛇腹状で、紙の上をまあまあ素早く動くらしく、そして何より1cm以上と大きい。
ぼくは嫌悪どころか恐怖を覚えた。
読書をしていてページをめくった先に、こんなものがいたらぼくは泣き出すだろう。紙の魚は大口を開けてぼくを飲み込むのを待っているのだ。
半ば泣きそうになりながら対処法を調べると、どうやらこのシミというやつはラベンダーの香りが苦手らしい。
なるほど、ラベンダーか。ぼくは即決でラベンダーのオイルを購入した。
迷える者よ、ラベンダーオイルを紙に数滴垂らして染み込ませ、それを本のあたりに置いておくと良い。さすれば、道は開ける。
そう、見ず知らずの電子のカミは言っていた。
ぼくは神託を得るがまま、紙にラベンダーオイルを垂らして、それを積んでいる本の上に洗濯バサミで留めた。
ぼくは実際にシミに会ったことはないから、シミがどんなやつなのかまるで知らないし、シミではないから、本当にラベンダーの香りが嫌いなのかも知らない。
でもきっと、会ったら泣き出すことは間違いない。
だから、ぼくは情報をただ信じて、災厄が来ないようにそのささやかな儀式を時々行なっている。
本の上に設置した紙が乾き切っているのを見ると、小さな瓶を取り出してきて、ラベンダーを紙に垂らして、慣らす。
何度も繰り返していると、儀式というものは形式化していくもので、段々とその儀式にはルールができはじめた。
10滴。一度に10滴を紙の上に垂らす。
瓶のお尻をとんと突くと、ラベンダーがぽたぽたと垂れていく。ぼくはそれを、ひとつ、ふたつ、みっつと数えていく。そして、じゅうを数えると、瓶を立てて、紙を傾けて、ラベンダーを慣らす。
別に10という数字に意味なんてない。ただ、キリ番だから。それだけだと思う。
しかし、10を数えること。落ちていくラベンダーに小さな祈りを込めながら、ひとつずつ、落ちていく砂粒のように時間を数えること。
それが、ただ、何となく落ち着くのだ。
ぼくには、この儀式に意味があるのかどうか分からない。そういう観点では、雨乞いとか他の儀式と変わらないのだろう。
いつ降るか分からない雨を祈る雨乞い。一生会わないようにと祈りながらラベンダーを降らす儀式。
ぽたぽたと落ちる雫は、紙の上に降って、染みとなっていく。
ぼくはその染みを、10数える。
ぽた。ぽた。ぽた。ぽた。ぽた。ぽた。ぽた。ぽた。ぽた。ぽた。
ぼくの本の匂いは、ラベンダーの匂い。