青い光は可愛くないし、手元から目薬
最近よく、眼球の表面だか、網膜だか、目の全体だか分からないが、凄まじい痛みに襲われる。
奥から焼けるようにじんじんと、目からはぽたぽたと涙が溢れて、それでもなお目は痛み続ける。
ついには音を上げて、思わず目蓋をぎゅっと強く閉じる。
そうすると、多少痛みは緩和されるのだが、多少でしかない。
恐らく、いわゆるドライアイとかいった類のものだ。
最近、液晶を見ることがとても多い。四六時中見ていると言っても過言ではない。スマホからはじまり、タブレット、パソコンのモニター、ゲームをしているテレビ画面と、じっとブルーライトを摂取し続けることが日課になっている。
しばらくすると、ぼくの目は限界を迎えたことを訴えてくるのだ。凄まじい痛みとともに。
もう少し穏便に伝える方法はないのか、と目に問うても、だってお前こうでもしないと続けるじゃないか、と目はつっけんどんに返答をしてくる。全くその通りである。
そうなると、あまりの痛みに耐えられないぼくは、慌てて目薬を掴んで、滴を目に落とす。
目薬はずいぶんと爽快感のある種類のものだから、突然に目は風当たり良くなる。
それもまた若干痛いのだが、とにかく潤さねばと、ひとつ、ふたつ、みっつと液を垂らしていく。そうしてようやく痛みから解放される。
そして、また性懲りなく画面の前に戻るのである。目には本当に申し訳ないと思っている。
子どもや孫など、可愛いものはとにかく可愛いという意味で、目の中に入れても痛くない、と言ったりする。
まずサイズ的に入らない、という無粋な突っ込みは置いておくとして。
可愛さを表現するために目の痛みを使うこのことわざからは、昔から目の痛みは激しいものであったと考えることができる。
目の中に入れると痛いから、目の中に入れても痛くないと言うわけで。
目という部位は視覚を司る以上、人間の部位でも大切な部位だ。だから、大切な部位を引き合いに出すのは不思議ではない。しかし、そう考えれば心臓とか脳とかの方がよっぽど重要に思える。
それでも目に入れるという前提になったのは、目に何かが入るととても痛いという共通認識が、ことわざ誕生当時からあったからなのだろう。
いつだって、目に何か入ると痛いのだ。たとえそれが触ることのできない光だったとしても。
つまり、ブルーライトは可愛くない。
ところで、ぼくは目薬が下手である。両目にさすので一度に二回行わねばならないわけだが、毎回どちらかは失敗する。
中央の黒を外し、白目すらも外した滴は、頬を伝って、首を通り、襟を濡らしてしまう。
高さ1cmもない状態でこれなのだ。数メートル上から目薬をさすなんてどれほど難しいことなのか。
二階から目薬、である。
もどかしいとか回りくどいとかそう言った意味だが、尋常ではない難度をよく表していると思う。
想像してみても、全く成功のイメージが浮かばない。どう考えても入らない。
なるほどもどかしい。とっとと階下に降りて目薬を手渡せば良いのだ。はい、どうぞ。
しかし、もどかしいことを言うのであれば、もっと言い方はたくさんあると思う。卵を割ったら殻が結構入った、とか。
そんな並み居る強豪を打ち破り、二階から目薬をさすことになったのは、当時でも目薬をさすのが難しかったからだと思う。
ただでさえ目薬をさすのは難しいのだから、二階からはなおさら難しい。そんな実体験に基づく、生活密着型のことわざなのではないだろうか。
ともすれば、目薬をさすことに失敗するのも、普遍的な経験なのかもしれない。
そう考えると、ぼくは目薬をさすのが下手ではないと言える。昔から無数の人が何度も失敗しているのだ。ぼくだって失敗する。
むしろ、失敗しない人が上手いのだ。目薬をこぼさない皆さんは、目薬をさすのが上手だ。誇っていい。二階からはともかく、手元から目薬はできる人々なのだ。
そんなことをつらつらと並べ立てていたら、また目が痛くなってきた。目からの伝言が来てしまっている。
はやくしろ。画面を見過ぎだ。目は痛いぞ。
うるさいな。わかったよ。目薬させばいいんだろ。
そうじゃない。画面を見る時間を控えろって言ってるんだ。
このご時世に無理だ。目薬で勘弁してくれ。
いいから早く画面から目を離せ。そして目薬をさせ。お前の気持ちなど知ったことではない。
はあ。全く、目の上のたんこぶである。